出田充宏さんの体験:


記述は8月22日、左欄の日付は玉置が入れ、原本→ http://www.interq.or.jp/jazz/delta/miyakejima.html


三宅島にて
17日  17日、出発前に私は1つの事を気にかけていた。いくらTVで住民の方々が観光客が来ることを望んでいるのを知ったとはいえ、非常時であることは変わりはないし、私ひとりが数日間滞在したところで現地の経済が潤おうわけもない。自分にできることなんて何もないのではないか、しかし行動しなければ何も変わりはしないという確信はあった。結局、難しいことは考えずにこの旅行を満喫しようと心に決めた。なによりも私はイルカと泳ぐという夢を叶えたかったのだ。

 7年振りに乗り込んだ定期船すとれちあ丸は予想以上の乗船客に賑わっていた。時折耳に届く会話から三宅島の住民の方が何名かいることがわかる。皆一様に8月10日に起った噴火の被害を気にかけており、現地の状況が伺い知れた。

 2等船室の床にごろりと寝そべって眠ろうとしたがマナーの悪い客の騒がしい声に度々目を覚まされ、嫌気がさして甲板に出た。海は不思議な程穏やかで船が通った跡以外は何も見えない。ぼんやりタバコをくゆらしながら島での休日の過ごし方を考えた。

 間違っても「ボランティアです」なんて態度は見せないつもりだった。もし仮になんらかの手伝いをして、それがほんのすこし現地の方の役に立ったとしても、それは遊びの姿にしか見えないであろうことが分かっているからだ。永住する気があるなら別だが、私は三宅島の人間ではない。

 私にできることは観光客として現地に訪れ、そこの状況を帰ってからみんなに伝えることくらいだから。
18日  ほどなくして進行方向に町の明かりが見えてきた。夜明けとともに錆ヶ浜港に接岸、降り立つやいなや足元に前回の噴火による火山灰を見つけた。初めて見る火山灰は思ったより細かく、普通に歩くだけで柔らかい煙りを巻き上げる。吹きだまりには2cmほどの厚みで灰が固まっており、その固さにあらためて驚く。一度泥流になってしまうとさらに除去が困難になってしまうのだろう。

 港には宿のスタッフのKさんが迎えに来てくれていた。車で15分ほどの道のりを坪田地区の宿に向かう。途中、宿泊客は他にいるのですか、と尋ねると親子連れの観光客が3人と新聞社の記者が2人泊まっているらしい。それを聞いて少し安心したが、例年の観光シーズンのピークに、80人のキャパシティーに私を含めて6人というのは、やはり深刻な事態なのだと改めて気付く。

 早朝の到着だったので朝食まで部屋でぼんやりすごす。数回僅かな揺れを感じるが、気にする程の地震ではなかった。朝食を済ませた後、宿の方々に改めて挨拶する。泊まり込みのアルバイトの女の子が2人と宿の主夫婦。驚いたことに御主人はTVのインタビューで私に三宅島行きを決意させた方であった。

 念のために宿の人に行き先を告げて、食後の運動がてら付近の散歩に出掛ける。道路沿いには椿やハイビスカスが植えられており、南の島らしく真っ赤な花が咲いていた。

 所々に残った火山灰以外は前回の噴火を思い起こさせるものはなく、非常時の来島であったことを忘れる。ただ海岸に出た時、おそらく数日前に崩れたであろう巨大な岩を見つけた。

 宿に戻ると記者達が荷物をまとめていた。14:00発の東京行きの船で帰るらしい。今思うとおそらく悔やまれる選択となったであったろう。彼ら以外にこの地区には誰一人報道関係者は残っていなかったのだから。

 午後は近所の長太郎池に泳ぎに行った。ここは溶岩が生み出した天然の海水プールで、大人の足が届く程の深さに豊富な種類の生物が生息している。2時間泳いだだけだったが全く飽きなかった。岸にはライフセーバー達の姿が見え、海水浴客の安全を見守っている。私の故郷と同じく海の主役は子供達だ。久しぶりに元気で真っ黒な子供の姿を見て田舎の良さを実感する。

 海の家で昼食をとり、店のおばあちゃん、おじいちゃん達としばらく話し込む。今回の噴火のことを尋ねると、今まで四回経験したが雄山がこんなふうに陥没したのは初めて見たそうだ。見上げると火口のあたりから真白な雲がモクモクと立ちのぼっている。その雲が局地的な大雨を降らせており、泥流被害に備えて消防団が召集されたらしい。

 帰り際、私と入れ代わりに宿に泊まっている親子連れが泳ぎにやってきた。送迎にきたKさんがおばあちゃんに、気ぃつけてな、と声を掛けていく。その何気ない行為に、いっぺんでこの島が好きになった。

 宿に帰り、翌日に備えてダイビングの雑誌を読み漁る。4時半頃、すこし大きめの地震が数分おきに起る。気圧計付きの腕時計をみると、一時間前と比べて7〜8気圧急激に下がっていることに気付き、嫌な胸騒ぎがした。

 数十分後、部屋のドアがズズズズ.......と細かく軋み始めた。長引く地震だと思っていると慌ただしい足音が廊下に響き、外から、雨戸をしめろ、と幾分緊張した声が聞こえた。飛び出して向いの部屋から雄山の方角を見るとそこには距離感を疑ってしまうほど巨大な噴煙が立ち上ろうとしていた。例の親子も帰ってきており、少年が興奮気味に私の横で最初の様子を説明していたがほとんど覚えていない。あまりの光景にしばらく呆然としていた。真っ黒な噴煙は私の目の前でぐんぐん成長し、時折その中に稲妻が走り、雷鳴が轟く。先端部は見る間に私の視線の届く範囲を越え、軒先に隠れて見えなくなった。そこで初めて噴煙が私達の真上にあることに気付いた。同時に近くでパシンとなにかが弾ける音がした。すぐに噴石だとわかった。バイトの女の子達と手分けして雨戸を閉め終えると大急ぎで荷物をまとめ、玄関に出た。海から帰ってきたばかりの親子は準備に手間取ったのかまだ下りてきてはいない。宿のおじいさんに指示をあおぎ、避難先を確認し、荷物を車の荷台に放り込む。大雨よりも激しい音が辺りを包み込み自然と皆の語気が荒くなった。火山灰の臭いなのか、金属臭のようなものが鼻につく。全員乗り込んだのを確認するとおじいさんが運転席に飛び乗り、車を発進させた。

 少年はまだ興奮しているようだったが、中学生のお姉ちゃんは不安そうな顔をしている。みんな黙っていた。私は今何ができるのか、何をすべきなのか、そればかりを考えていた。何も分からなかった。僅か100m先の避難所(坪田中学校)に着く頃には空は噴煙に覆われて真っ暗になっていた。

 体育館にはすでに数十名が到着しており、係りの人が毛布を配っていた。数十分もすると人が溢れ、その人達は校舎の教室へ避難した。たたきつける噴石の音がさらに大きくなり、避難所の責任者らしき人が心配そうに天井を見上げている。みな設置されたTVを食い入るように見つめ、情報を待った。バイトの女の子達が小さな声で、だってアタシがパニクっちゃったらみんなパニクっちゃうでしょ、と話してるのが聞こえた。素敵な娘だなと素直に思った。私はもう一度自分にできることを必至で考え始めた。

 幸いなことに噴石は弱まり、避難所の空気が落ち着き始めた。ライフセーバーや住民の方達と毛布や飲料水の配給を手伝い、みんなのところに戻るとようやく落ち着いて話せるようになった。先程から行方が気になっていた御主人とKさんは噴火と同時に、船を沖に避難させるために港へ向かったそうだ。奥さんが携帯電話で連絡を取り合っていた。阪神淡路大震災の際、数時間東京から実家に連絡がつかなかったことを思い出し、便利になったものだと感心した。ただ今回は三宅島行きは両親に伝えてなかったので、土壇場になるまで家族には連絡するまいと心に決めた。かわりに以前の会社の先輩に連絡をいれておいた。初めて自分の命が危険にさらされていることを認識し、不安になる。

 避難所の中はひといきれで茹だるように暑く、扇風機は数台置いてあるものの、じっとしているだけで玉の汗が吹き出した。屋外は涼しいのだが降灰が舞い込んでくるので扉を開け放すことができない。そのため村内各所に設置されているスピーカーからの緊急放送が聞き取りにくくなっていた。私は音響機材の知識があったので体育館の音響のシステムを調べ、村内放送が聞こえるように手を加えた。ようやく自分にできることを見つけ、責任を果たせたような気がして私はその場にどっとへたり込んでしまった。

 9時か10時頃、遅い食事が用意されたがお米の絶対数が足りないらしく、非常食のアルファ米で作った五目ごはんが配給された。あまり味は良くないが避難所の空気が一気に和やかなものになった。火山灰は降り止み、皆翌日のことを話し始めた。老人達は過去の経験を子供達に話していたのかもしれない。

 ライフセーバーや消防団、自衛隊の方々は火山灰の降る中を真っ黒になりながら配給物資や情報を持って走り回り、土嚢積みに奔走した。女性達は避難所での配給や名簿作りに汗だくになった。混乱はほとんどなかった。素晴らしいチームワークだったと思う。

 消灯を迎えると辺りはすぐに静寂に包まれた。それほど皆疲弊していたのだろう。私も知らないうちに眠りについていた。
19日  4時頃、奥さんに揺り起こされ目を覚ました。雄山の沈静化を見て定期船が平常通り入港することになったそうだ。ただし一旦八丈島へ向かうため今乗船しないと雄山の状況次第では午後の寄港は保証できないらしい。私と親子は荷物をまとめた。外には御主人が車を用意してくれており、錆ヶ浜港まで送ってくれた。あたりはまだ薄暗く、ヘッドライトに映し出される風景は前日とは全く違っていた。港に着いて車を降りるとルーフカバーが砕けているのに気付いた。いったいどれくらいの大きさの石が降れば車の天井に穴が開くのかを想像して、よく死傷者が出なかったものだと驚いた。

 御主人に別れを告げて振り返ると丁度定期船が接岸するところだった。下船客は一目で報道スタッフだと分かった。出航準備が整うまでの間私は悩み続け、結局踏み止まることにした。御主人と奥さんの好意は無視してしまうことになるが、何もしないよりはマシだと思った。親子を見送ってから待合室に腰をおろし、宿に戻る方法を考えた。

 しばらくすると船内で気分を悪くしたおばさんが担荷で運び込まれ、係員が救急車を呼んだ。救急車に乗り込む際、一組のカメラクルーが近寄り、それを撮影しようとするのを見て係員が怒りをあらわにした。噴火の被害を伝えるべき報道関係者がなぜに船酔いの女性を撮影する必要があるのか、愚かしいにもほどがある、少しは島民の気持ちを考えたらどうだ。怒られたカメラマンはふてくされながら足早に去っていった。

 私と同じように港で足止めをくらっていた報道スタッフ達が車を手配し、順に散らばっていった。同乗させてもらおうと思ったが皆最も降灰の多かった伊ヶ谷、阿古地区に向かうらしい、坪田とは反対方向だ。一時間ほどしてようやく坪田地区に向かう車を見つけ、同乗させてもらう。数時間前に通った時は夜露のおかげか降灰はしっとりとしていたが、乾燥した灰は徐行していても真白な煙りを巻き起こし、数m先でさえ見えなくなる。そのため対向車とすれ違う度に車を止めなければならなかった。逆に水道管が破裂して水が流れているところでは煙りは立たないがタイヤがスリップする危険性があり、止まっては進み、また進んでは止まるの繰り返しだった。

 坪田中学校に着いてまず体育館を覗いてみたが少し前に一時帰宅が認められ、避難所には人影はまばらだった。宿に向かうと皆が怪訝な顔で私を見た。無理もない、宿の人達は私の命に責任を持つ必要など一切ないのだから、かえって迷惑になるのはよく分かっていた。御主人に自分の非礼を詫びてから手伝えることを探した。何度も部屋に入って休んでてくださいと言われたが、ここまで来てしまった以上それに甘えるわけにはいかない。その気持ちが伝わってか私が手伝うのを皆黙って認めてくれた。

 御主人と親類の方、Kさんが屋根の上を、他の者が宿の前の道を受け持った。辺り一面に噴石を含んだ火山灰が3cmほど降り積もり、わずか2平方メートルほどを掻き集めるだけで作業用の一輪車がいっぱいになってしまう。その度に庭の隅に運ばなければならない。そんな作業が何度も繰り返された。屋根の上ではほうきや園芸用のスコップで灰を集め、土嚢袋につめる。火山灰の詰まった土嚢袋はひとつで20・近くあり、数袋運んだだけですぐに息があがってしまう。みな前日はほとんど眠っていないだけに大変な重労働だ。午後の船に間に合わせるために昼過ぎに作業を終了したときにはみんなへたり込んでしまった。

 作業中にはひっきりなしに安否を気づかう電話が入り、中には翌日からの宿泊を申し出る報道関係者や復旧作業関係者の声もあった。

 宿に戻ることを決意した時には東京に戻れなくなるかもしれないと覚悟していたが、ひと作業終えたころにはむしろもう帰るべきだと考えるようになっていた。もちろん降灰除去作業はまだ全然終わってはいなかったし、作業の手が必要なのは誰の目にも明らかだ。しかしこれ以上滞在するのは迷惑になると思った。それよりは東京に戻って自分のできることをするほうが賢明だと思った。本当の復興は降灰除去作業が終わってから、住民の手によって始まるのだから。

 港に向かう車のなかでお互い大変な目にあったものだと笑いあった。私は結局宿に一泊もできなかった。バイトの女の子のひとりは今日バイトを終えて実家に帰る予定だったらしい。もうひとりは、帰ったらお母さんにしかられるぅ〜、と笑っていた。みんな無事でなによりだった。

 避難客で賑わう定期船に乗り込むと、先に出発した親子の姿が見えた。みんな無事だと知って嬉しそうである。火山灰に白く煙る三宅島を眺めながら、私はみんなにこのことを伝えようと思った。それがどんな意味を持つかは分からないけれども、そうしなければいけないと思った。別れ際に御主人が言った、ようく覚えておいてくれ、という言葉が耳に残った。(8.22)

後記
 東京に帰った翌日、三宅島全域で避難勧告が解除され、その翌日に自衛隊の災害派遣部隊が300名現地入りしました。しかし依然として地震は続いており、まだ安心はできませんが、ひとまずは避難勧告解除のニュースを喜ぼうと思います。

 連日の凶悪犯罪のニュースに押されて三宅島の情報はますます入手しづらくなってきています。運良く三宅島における事態がこのまま終息してくれれば、おそらくその他の災害と同じく、今回の噴火も人々の記憶から薄れていってしまうでしょう。私もそうでしたから。

 私がここのように災害に特化していない自分のホームページに文章を掲載しようと思ったのは自分が忘れないようにするためもありますが、別の目的でふらりと立ち寄ってくれた人がすこしでも災害に関心を持ってくれればと思ったからです。

 三宅島の復興はすくなくとも今後数カ月を要するでしょう。警戒が解除された暁にはこのページのコンテンツは観光案内へと改造していこうと考えています。そしてもう一度三宅島を訪れる日が来たら、そのときは完全な観光客としてイルカと泳ぐ夢を実現させようと思います。

 今後も三宅島の情報に耳を澄ますとともに、自分にできることを模索し続けようと考えています。
一日も早く三宅島に平静がもどることを祈って(8.22)

..end