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「行政の立場からみた噴火予知研究」 青山やすし 

『第4回 火山噴火予知研究シンポジウム 〜 定量的な予測をめざして 〜』 より
掲載 2002/01/18  文字テキストへの変換 「三宅村議会議員 佐久間達巳」さん

青山副知事:

 東京都の副知事の青山でございます。普段、火山学会の先生方には大変お世話になっておりますし、頼りにさせていただいております。
 私は三宅島の噴火につきまして、現地災害対策本部長というのを、一昨年の6月26日以来務めておりますので、この1年半にわたる行政の現場からのお話を火山学の先生方に対して聞きたいという意味でお話をさせていただきたいと、そう思います。

 三宅島が一番最初は一昨年の6月26日午後7時半、緊急火山情報。これ非常にあざやかでした。私はそのとき午後6時半から外国のお客さんと赤坂で食事をしておりまして、携帯電話の通じるところだったんです。 でまず最初に災害対策部長から「三宅島で緊急火山情報がでました」と、そういう電話がありました。
 で、ちょっと時間が早いんじゃないかと。 ご承知のように宮崎先生の21年周期説というのがありまして、それからいうとそろそろだということで、ちょうど一昨年の11月に避難訓練をやるべきではないかというプロジェクトを組んでおりまして、そういった検討をしていたところでしたので、そこでもういま噴火すると、そう言われると、ちょっと早いんじゃないかと。 それが私の第一印象だったわけです。
 で、とにかく噴火の位置についても三宅島の割れ目噴火によることなんで、「その該当地域については村のほうで避難勧告を出しましたか」と、で、「学校に避難します」そういう話だったんで、では私はどうしたらいいかと聞いたら、そこにいてくださいと、つまり携帯電話の通じるところにいてくださいと言われたわけです。
 そこですぐに電話を切ると報道課長から電話がありまして、「ニュース等が流れてますから見てください」という話だったんで、これは戻った方がいいなというんですぐに、まあお客さんには失礼をして都庁に戻ったんです。 
 で知事と電話で話して、その時に石原知事の言うのはですね、まあ石原知事は国会議員の時代に選挙区が島も含まれておりまして、島の人たちをよく知っているわけです。 「三宅の人は噴火慣れしているから、避難勧告を出したってそむく人が結構いると思うから、おまえはすぐに行けよ」と、そういうふうに言われまして、すぐに行ったわけです。 ですから午後7時半の緊急火山情報でしたけど、その晩のうちに私はもう三宅島に到着しておりました。
 で、行くとやっぱりですね、緊急火山情報ってなんなのか、避難勧告ってなんなのかってこと自体が、それよりも、どうせ、まあどうせというのも変な話なんですが「割れ目噴火だ」と、そういうこともありまして私は着いてからその足で避難勧告の出された地域近辺を車で行ったんですけれど、まあぞろぞろ結構、人が歩いているんですよね。 で極端な人はナップザックなんか背負って自分の家に帰ろうとする人まで明け方なんかいたわけですけれども。 まあこれは確かに知事の言うとおりだなということで、避難勧告の出た地域で組織している地元の消防団ですけれども、同行するということをやったわけです。
 その後、マグマの位置も正確につかめているということで、次々と避難勧告の地域なんかを拡大したり縮小したりというようなことをしていったんです。 でそこまでは非常によかったんですね。 で噴火後の29日のいわゆる安全宣言でして、ここからいろいろと混乱が始まっていったわけです。 そこ、上に”地震他の状況”というのがありますけれども、6月26日、あっ失礼しました、臨時火山情報ですね。 で29日にいわゆる安全宣言とプレスが報道してしまった。 予知連も前から安全宣言は言ってないですよね。 そういうことがありまして、6月29日の日も朝から、マグマの位置がつかめていて、西の方の海域に移動しているので、つまり神津島、新島の方向ですけれども。 でしかもさっきお話もありましたように海底噴火もあったということで、いままでの動きからいうと、もう安全宣言という受け取り方をプレスもしたわけでして、29日の朝にその種の予知連のコメントが出たということで、朝からプレスが私の方に取材が、まあ私は現地で5日間いたわけですが、そういう話がありまして。 
 ところが現時点で、村長に「ということなんで全島避難勧告は解除」とういう話をしましたら、やはり村長がというよりも、やはり村の人たちが、現に震度3,4で揺れ続けているわけです。 ご承知のように震度4になってくると車を運転している人がブレーキを踏む、そういう揺れですよね。 ですから「違うんじゃないか」という話が村の人たちからはあったんです。 で、地震に対する厳重な注意が引き続き必要だということを強調しようということで、村長から避難勧告の解除をしてもらったわけですが、それでもその晩すぐにバスを仕立てて各集落に戻るという手配をしたのですが、100人以上の人たちが「いやこんなに地震が続いているのに家に戻れない、心配で戻れない」ということで、そのまま避難所は維持したということが29日でありました。 
 でまあ結果的には40時間後に、西の方に移動したマグマによってなんでしょうですけれども神津で震度6の地震があり、またそのあと1週間後の7月8日には三宅の雄山自体の大崩落があってそのあと小噴火、そして7月15日では新島で大地震というようなことがありまして、じゃあどうするかということでかなり混乱をしていた、混乱というのは情報が混乱していたということであります。 で8月18日の大噴火、29日の大噴火を経て全島避難、今日に至るという経過であります。
 下に「防災機関の対応」とありますが、噴火に関する情報と行政の対応というのは非常に密接に関係しているということをご理解いただきたいわけです。 そういう動きが翌年以降も続いているということであります。
 これがその臨時火山情報が出た6月26日の三宅小学校で、この人たちの姿を見てもおわかりのように、どうせ噴いてそれで家に帰れるということで、だいたい荷物なんかろくに持ってきていないと、そういう島のほうは雰囲気だったわけですね。 これが6月29日の予知連の、これを見ると予知連のコメントは「安全宣言」って言ってないんですけれども、新聞の見出し、これは毎日新聞ですけれども、「安全宣言」というふうに、で「避難勧告全面解除」というふうに報道されてきたわけですね。
 これが痛恨でして、その40時間後に神津で漁船のための氷を漁協にとりに朝に行った漁民が崖崩れで1人死んだと、そういう出来事。 これは私にとっては痛恨の出来事でした。
 これは9日って書いてありますが、崩落したのは7月8日で、9日に撮った写真で、三宅の火口はこの部分は草原になっておりまして、火口という形にはなっていなかったんですね。 きれいな草原でサウナなんかがあったのですが、それが大崩落をして、それまで火口といわれていた草原の部分が400メートルだったのが直径1600メートルくらいに広がって、下に向かって数百メートルの穴があいたという状態になっております。 
 これが7月15日の新島の大地震でして、これは幸いケガ人等はなかったのですが、新島本村と若郷を結ぶ道路はいまだに仮設という状況で、現在トンネルを掘り始めているということで、まだ復旧が終わっていない状況です。
 これがしいとり神社、よく新聞に出ているものですが、これはまだ8月1日にこれだけ、これはたいした鳥居ではないんですが、8月1日にもう2メートルくらい泥流で埋まっていたわけなんですね。 で大噴火は8月18日、29日ですので、その前に小噴火が何回かあった時点でもこれだけ、まあ地面から2メートルくらいの泥流が押し寄せてきて埋まったわけです。 でこの時点ではまだ島民は島にいる、そういう状況だったわけですね。
 私どもは、まあ最初は「噴火、噴火」といったわけですが、このころから非常にその、まあ泥流で小噴火によって降った灰で、ちょっとした雨が降るたびに道路が不通になる、それを啓開作業をするということにかなり忙殺されるという状況が続いていたということですね。 で8月18日に大噴火がありましたので、これは島中がこういった状況になって、これは自衛隊に民家だけでもということで、灰の除去作業をお願いしたという状態なんですが。もうこれで、もうちょっとこの島には住めないという状況になったわけですね。
 ところが3800人の住民がいるわけでして、これをどう避難させてどう受け入れるかという議論を実は陰ではしていたわけでして、ここでその「全島避難の検討」というふうに言っちゃうとパニックになるだろうということが一点。 
 それからここにいらっしゃる先生方で具体的に顔が、あの、えー思い出すんですけれども、私どもずいぶん先生方に直接、間接にご意見を伺っていて、まあすぐに大噴火ということはないだろうというお話も伺っていました。
 ただ一部の学者の先生には三宅島が、まあ表現は悪いけれども、吹っ飛んでしまうような、そういうことをホームページでそういう趣旨のことを投げかける方もいて、そのホームページのプリントが、かなり島のどこに行っても置いてあるという状態で、私なんかはほとんど三宅島にいましたから、「どうなんだ」とそのホームページのプリントを見せられて、旅館の主人だの漁協の組合員などにも、その対応に結構忙殺された。 「いやとにかくまあ避難させる時には避難から、ちょっと待て」ということで。 私どもは”さみだれ避難”で大丈夫だと。 だいたい3800人を運ぶ船がないんですから。 まあ”さみだれ避難”で大丈夫だろうということを、まあこの際に感謝申し上げたいと思いますけれども、ずいぶん先生方からは個別にいろいろとお話を伺っていて確信を持って、そういう形で徐々にやろうということで・・・・。
 で29日の低温火砕流を受けまして、まあこれでタイミングということになったわけでして、この時によく新聞に出ましたけれども、石原知事はクアラルンプールなんかにいて、まあ朝晩私のところに電話がきて、「マグマはいまどこにいるんだ」と、「大丈夫なのか」と。 「いや大丈夫です」と。 「部長、局長、知事が帰ってくる日にちでまあ決めるといいますか、だからそれは言いません」ということで。 もう「きょう全島避難を出すんですか?明日出すんですか」というように新聞なんかはそれにもう関心が移っていったんですけれども、まあ私どもはすべての権限が決まって正式的に決めるまでこれは言わないということで、まあ徹してきたと。 
 でこれが9月1日に全島避難指示を決めまして、9月2、3、4の八丈航路の定期船で、三宅にきちんと午後2時30分に寄る普段の船で東京に全島避難していただくということを決めた。 これが最後の4日にでる最後の船であったということであります。 でこのときに私もここにいますけれども、この時に島にはやはり300人くらい人を残し、これは行政からライフライン、インフラ維持の関係者を300人くらい島に残した。 同時にこの日のホテルシップをチャーターして、8月29日にも大噴火があったというんで、このあとに大噴火があった場合の避難体制はとろうということでやったわけです。
 でこのあと9月6日に大雨が降るという気象庁からの警報がございました。 このときに実は私どもは大議論をいたしまして、島に残った300人もホテルシップで避難させるべきかという意見と、いや無人島にするということはどういうことかというと、この時点では発電所が止まるということ。 その後に経済活動ができるように1年かけて工事しましたけれども、無人島になるということは発電機が止まるということ。 すべての、すべてではないな、三宅支庁などは自家発があるから・・・。 観測機器のかなりの部分が止まるということになります。 私どもも全島避難を決めた日から、こんどはいつ帰るんだと話になっているわけですから、観測が絶対条件でして、観測は守るということがある。 この時点では、いまはかなりそれぞれの自家発装置でできるが、この時点では無人島にするということは観測がほとんど止まるということであった。 それで私どもは観測を止めることはできないということで激論を本当に徹夜でしました。 で現地の副本部長まではもう全員が避難して無人島にするということで私のところにあがってきたのを、私が絶対にダメだということで村役場とも相談し、インフラ、ライフラインの従業員を残すということで、ホテルシップと両面策で救出が出来ると。
 ただそのときにも先生方にいろいろとご意見アドバイスを受けていると、直ちに壊滅的な大爆発はないという確信をもっておりましたので、必要に応じて残したと。 ただこの要員を残したのもこのあと9月16日までで、雨が降るたびに残した要員が移動できないという状態になったのがひとつ、これは泥流です。 これはもう泥流が破壊的になってきた。
 それともうひとつはガスです。 この時点ではガスの成分や対策は正確には把握されてはいなかったので、ホテルシップも島に近づいた時に、まあその中の連中が「臭いよ」と、「おかしいぞ」というような、そういう非常に原始的な状態だった時期もあったわけですが、そのうち計器よりSO2、H2Sだということがわかってきて、これは危険だということで、結局9月16日にさらに大雨警報と台風情報の中で、というのを機会に無人島にしたわけです。 
 この時には残念ながらいったん通電は廃止して、これも騒がれたように、三宅を経由して他に電気や電波が止まるという記事がありまして、この復旧工事をその間に実はしていたということもあったわけですけれども、で9月16日に無人島にしたという。 
 で、こういった泥流でいま埋まっている家屋というのが約40軒くらい。 道路がこういった形で機能しなくなってくる。 次々こういう写真があります。 これが昨年の5月、これ立根の仮橋というんですけれども、長さ40メートルあります。 で300トンを扱えるクレーン車を運びまして、で立根というのは島の一番南の部分で、ここに仮橋を架けた。 これがですね、全島避難からは約10ヶ月くらいたっています。
 で、この間、1年近く完全に不通になっていた部分で、仮にこの東側に上陸したとしたら、ぐるっと回ってこないとこっち側にこれない、そういう状態が1年近く続きまして、ここに仮橋をつけるというのが、泥流に対する復旧工事としては、ここがまあターニングポイントっだったかなと。 これが出来たんでその後クリーンハウスを作って、いまは多い日には500人くらい、日中、特に泥流工事、ダム工事をしていますけれども、そういう土木工事という点での挽回するひとつのターニングポイントになったのが、この立根の仮橋であります。
 だいたい上の方の樹木はこんな状態。 でまあ橋を作るのと道路の保安、維持。 でこれが二酸化硫黄の一部、ちょうど1月から8月、月平均でいうと下がってはきている。 これが脱硫装置。 これでいまは300人くらいが泊まれるようなクリーンハウスで、島の方たちもいれて、観測の専門家ですとか、あるいはその他の泥流、都道の回復の工事の関係者が泊まり込んで、それで回復しながら数百人が毎日渡る。 実際にはいまこの冬季なんかは波のうねりがかかって、ほとんど船が接岸できないという状態がつづいているんで、まあ予定よりははかばかしくはいかないのですが、一応そういう体制はできているわけです。 
 これはダムですね。 16ヶ所、三池の上、工事をやっております。 でこれらの経費、東京都が公費をいただいて平成12年度、13年度、それからいま、今日も私ども予算、原案つくりの作業をやっているんですけれども、これからつくる予算も含めると約800億円、道路その他のインフラ、それからライフラインの復旧のために約800億円の事業費をすでにかけております。 ですからおととし、国の補正予算のときに観測計器の数十億円と聞いたときに、「2桁ちがうんじゃないですか」私どもはいいました。 そうしたら「いやお金をかければ観測できるということでもない」というご意見もあったようですけれども、私どもの感覚からいうと、東京都は、要するにいま三宅の問題というのはガスと泥流です。 ガスがいつ止まるかというのが最大の関心。 で泥流を防止するのに私どもは800億円かけています、3年間で。 
 でおととしの補正予算が火山観測で12億円。 やっぱり私どもはいま考えても2桁ちがう、1桁じゃない、2桁。 でお金をかければいいってもんじゃないというのもよくわかりますので、それはまたぜひ金額などでも教えていただきたいと思います。
 
で要するにこれなんです。 いま島の人たちは帰れるか、帰れないか。 何をおいても帰島したいというのが青い部分で47パーセント。 メドがたてば、まあ計画ですね、帰島するというのが39パーセント。 あわせて86パーセントの人が、まあ帰りたい。 で、もう帰らないという人が10パーセントというのが1年半の経緯であります。 
 でこれなんですね、火山学会への要望とあります。 行政への要望という聞き方をしても、島の人に聞くと「帰島の見通し」 これが行政に対する要望の第1位。 で帰島の見通しというのは、要するに火山ガスがどうなのかということなんです。 泥流については、これは土木ですから、土木工学で見える部分ですから、これはさっき言ったように正確に把握して、数百億円のお金をかけて泥流防止策をやっているわけなんで、泥流については少なくとも数年かければ防止できるんです。 あとはガスということで、これが切実な、えーなぜ私がきょう火山学会に伺ってお話をさせていただくかという切実な要求であります。 でここで問題なのは、私どもは懲りたことがある。 一昨年の12月27日のある新聞の夕刊に、「火山学会のみなさんに、帰島の見通しを聞きました」というのが要約して出していた。 それに例えばある火山学者の回答で「やる気さえあれば1月には帰島できる」 去年の1月のことです。 一時帰島できる。 「やるきさえあれば1月には一時帰島できる」と、こう答えられている。 たぶん現場としてはそういう流れではなく、新聞がそう書いている。 それが12月27日。 28日にはですね、都庁と三宅村役場には、村民からの電話が殺到するわけです。 やる気があれば1月には一時帰島できると。 「させろ、家が心配だから」と。 もう本当に仕事にならなかったですよ。 ほとほと対応にですね。
 私どももそうですよ、藁をもすがる思いで、うちの知事だってそうですよ、本当に謙虚に聞きましたよ火山学者の話を。 だから歯切れ良く言っていただくのはいいんですけれども、歯切れ良く言うのは、未知の部分は未知と、わからないのはわかならいけれども歯切れの良さだと私は思うんですよね。 それをやる気さえあればと、そりゃわれわれ、一時帰島できるわけがないって、悪いけれども。 だって12月とか1月とか2月とか3月は西風が強くて西高東低型ってわれわれ学校でも中学校の理科で習いましたけれども、西風が強くて船が行かないんですよ。
 いまだってそうですよ、いま三宅に神津から通う船が、たった38キロですよ、この通う船が週に1回か2回しか通えないんですよ。 かなり無理して交代要員を運ぶために、あるいは荷物を運ぶために出航しようと、そのために帰る度に時化になっているのに、一般島民を悪いけど東京からなんてできないですよ。 そんなのまったくね、つまり一時帰島できるかできないか、火山学だけで決められないんですよ。 大事なところでしょ。 一時帰島は火山学だけでは決められないんです。 東京にいる人を180キロ運べるか運べないかなんですよ。 一時帰島は結構ですよ。 だから本当に、でも、あの、つまり火山学の立場から言うんだったら、ちゃんと言っていただいているんだろうと思うけれども、新聞はそう書くんですよ。 そうすると電話がかかる。 あるいは結果的には島の人の心をもてあそんでいることになるんですよ。 これは一時帰島だけじゃないんですよ。 いつ帰れるかということも、これは人生が、3800人のひとりひとりの人生がかかってくる。 ここで永久就職をするのか、それともまだパートでいるのか、子どもの学校はどっちにするのか、みんな3800人の人生ひとつひとつがかかってくる。 これは火山学だけでは決められないんです。
 ですからそこのところはぜひご理解を。 これから戻るっていったってそうですね、やっぱりガスと泥流、それから運搬費、いろんな要素があるわけなんで、そこのところをぜひご理解を。 もうね、とにかく学者のみなさんが何か言うたびに、われわれのところにも殺到するんですよ。 そうなんですよ、その12月27日、いまだに新聞をとってある人たちが結構いるんです。 その証拠に、そのときにまあ1年くらいあればって、身に覚えがある人はいません? そういうふうに答えられた人が何人もいたんですよ。 そしたら「1年たった」って現に私言われましたから、この正月に、何人かの島民が。 「あのときに有名な何々先生が1年たてばと言ったけど、1年たった」と。 「ガスはどうなんだ」と。 帰れると思って「いいんでしょうか」って。 あのそれはね、先生方から見たら違うと言い分があるのはわかるんです。 でもわれわれの言い分も聞いてほしいんですね。 ほんとうにね、われわれが言う、行政が言うのはいろんな要素を考えて言うね、だいたい歯切れが悪いんです。
 要するに私たちの言いたいのは、歯切れの良さっていうのは、地下の部分っていうのは永久にわかんない部分があるかも知れない。 そういう点をむしろ、こうわかりやすくぜひ言っていただく方が今後のためにもいいのかなと。 言いすぎましたっけ。 あの、そういうように率直に思います。 

 以上が私ども行政の立場から見た今回の見地。  本当に先生方、頼りにしていますので、どうぞこれからもアドバイスなど、いろいろ、ぜひよろしくお願いいたします。 きょうはありがとうございました。

司会:

 青山副知事のほうから、三宅の現状と火山学者へ、われわれに対する切実な話が終わりまして、青山副知事はきょう、総合討論の前に退席されるということなんで、簡単な質問がございましたらぜひこの機会にひとつふたつ・・・どうぞ。

○○:

○○○○の○○と申しますけれども、どうも。 たとえば6月26日から29日のあいだ、あの全島(島内)避難している時とか、それから災対本部が廃止されてから8月29日までの間なんですけど、その間に住民に対する説明は、まあ誰が出来たのか、それともまた、実際はほとんどなかったと思うんですけれども、そのへんはどういうふうにお考え、まあいろいろ混乱されていたっていうことで、まあわかりましたけど、この対応は、なんかもっと出来たんじゃないかなと思うんですが、どうでしょうか。

青山副知事:

 おっしゃられるとおりだと思いますね。 あのこれね、特に全島避難をいつするかという話だっただけなんですよ、8月には。 特に8月18日のその成層圏に達する大噴火の起きる前に、すでに島の特に東部北部の方で灰が多く小噴火で降っていたと。
 で、かなり雨が降るたびに泥流で道路がやられていたという状態のあたりから、まあ結局は全島避難だということは、みんな考えていたと思うんです。 私どもも実は考えていた。 いまだからこそ言う。 熾烈な議論もしましたし、ここにいらっしゃる先生方の意見もずいぶん聞いて回ってた。 で、特に8月18日の噴火のあとは、もうあとは日にちの問題だと。 いつどういうようにして。 現にもう、かなり島外避難を始めていた人が、まだ全島避難の前に、まあご承知のように学校の生徒は全島避難を決めちゃったわけなんですね、秋川高校へ。 そういうようなことがあったんで、みなさんそう思っていた。 ただそれは、いま考えても、結局は「全島避難です」って私が言っちゃったら、やっぱりちょっと混乱したかなと、いまでもやっぱりそう思いますね。 だからそのもう三宅は避難だとわかっていても、テレビのインタビューでも「いやまだ全島避難はしません」というように、逆にはっきり言い切っていると思いますけれども。 それはやはり現対の体制の、受け入れ体制の問題じゃないですよ。 要するに安全だという情報が流れていなかったとしても、まあこういう状況だってのは、やっぱりこれは徐々にそうやって流れが出来てきたということがあるんで、まあやむを得なかったなと、かなと思います。 ただその説明がなかっ、あのー、する機会が持てなかったということは、それは私の責任というように感じております。
 で実際にですね、井田会長のお話とかセットしていただいたこともあるんですよ、村民にも広報してたこともあったと思うんですが、天候が非常に悪くて渡れない日が続いたりして出来なかったとか、そういうこともあったかと思います。 ですから、そういった説明を、特に科学者からの説明とか行政の説明をもっとしていくということは私ども必要だと思いますし、今回の経験はこれから活かしていきたい、そう思っております。

ウェブ掲載者の注:
これは青山副知事からの提供ではないのですが、公開の場で公人が講演したものです。
防災・行政トップとしての公的な発言であり三宅島2000年噴火の記録とします。

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