支援のありかた

玉置晴朗 2000/12/8 第1回院内集会後の感想

 三宅島噴火の避難者だけではなく、今まで多くの災害で弱者となってしまった者たちの支援運動があった。ここでは主に当事者ではなく外部からの関わりについて論考する。
 社会運動をすすめる者は、同じ立場にあるはずの者との差が見えやすいこともあって対立が生じることも多い。対立にどのように対処するかは、この運動にかかわる者どもの意識性に大きく係わっている。
 運動を政治的な意思の実現とするのか、それとも現に弱者であるものたちの存在改善に求めるのか、その目的意識性の有無が運動の将来を決めてしまう。

 政治意思の完遂が目的ならば、キリのように鋭い穂先で突き崩す道もありえ、運動組織としては中央集権的な統制と異端分子の排斥を通じて政治集団としてより純化する道をたどることもある。

 さて、支援がこのような道をたどるのか?
 自らの意志を通すことが弱者のためになると思いきるのはある意味で立派だが、神のような存在でありえない者のとる立場ではないだろう。小さな差異を増幅し拒絶の道を選択するならば政治運動としてかかわるが良い。支援運動としてははなはだ情けない。
 弱者は社会の少数派である。少数派が生き残るためには多数派にその気にさせなければいけない。多数派は多数であること自体で多様な集団だ。多様な集団に力を加えじんわりと向きを変えさせるのが現実的な方策だとするならば、わずかなりとも興味を示す人々を拒絶する手法を取るのは自殺的だとも言える、。

 ここで部外多数派の支持獲得と弱者の要望との違いに注意しなければいけない。運動は多数の意思を獲得しなければいけないのだが、弱者の要望や意思は並列的な羅列ではいけないのだ。要望はもっとも根源的かつ部外多数派にとって可能な方策を小数に絞って挙げるべきだろう。そうでなければ部外多数派はどうでもよい簡単なことだけをして済ませてしまう。部外多数派に簡素な逃げ道を用意してはいけない。

 誰かの意思を挫くことではなく、大きな恐竜の注意をこちらに向けてもらいたいと考えるべきである。大きな恐竜のあの足の先にある爪が嫌いだ、と運動しても何もならない。大きな恐竜の爪をなでなでしてこちらに注意を向けてもらうのが妥当であろう。

 既存の政治機構のなかにあるいろんな立場の人々を非難してすませるのでは、支援はいらないと宣言しているに等しいものがある。弱者の希望をまとめ、かつ弱者の中でもさらに少数の弱者にもっとも困難が集中していることを読み取るのが彼らと連帯しようとする者の役割である。

 政治運動化しているボランティア組織の人々には、注意を喚起しつつ、それでも排除しない大きく大衆的な運営方向を取らずしてどんな意味ある支援も実現しないことを銘記すべきだろう。

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